無以貴の旧聞

過去を知り、現在を思う事が出来れば良いな!

忘れられていた古代の規矩

f:id:muiki:20181217053159j:plain

 

6世紀大陸より仏教が伝来し、仏様と共に、お寺を造る技術も日本に入ってきました。

古代の技術は宗教と一体でしたが、近代では技術と宗教は別世界になっています。

 

図2、紫禁城のように中国の宮殿寺院は寄棟屋根造りになり、長い軒先を反上げる技術  も日本に入ってくる。

 

図3、柱の両端は垂直に、中央部柱を内側に傾けて軒先の反りを造る。内側に傾けるので梁長さがそれぞれ違うので、各部材の納まりは現場合わせが多くなる。

傾いた柱を建てる時は庇柱を同時に建て、繋梁で組んで傾き柱の安定を確保する。(図3の右側)

軒先は大きく反り上り、韓国時代劇映画に出て来るようになるが、日本人の感覚に受け入れられないのか、残存する寺院には見られない。

 

図4、柱は両端を長くして中央部側は短くする。柱の長さに応じて軒反りが出来るが、束の長さ等の部材寸法と仕口は現場合わせが多くなる。

 

図5、丸桁の背を違えることにより軒反りを造る。

 

図6、斗栱の部材寸法を違えることにより軒反りを造る。

 

          以上は古代の寺院建築に見られる技=「古代規矩術」。

 

中世になり寺院を建てる施主の多様化により、工匠は多様な施主の要望を叶える為に、工期を短く経済的な寺院建築工法を提案する手段として、流派を名乗り流派の秘伝書を作成しました。

現場合わせ仕事を少なくするためには、建方前の下小屋での墨付け・刻み仕事の比重を多くするため考えられたのが、規矩術という「設計図+施工図」という平面世界で立体を描ける技を、中世後期に創造したのが、「近世規矩術」といわれています。

 

近世から現在までの社寺建築は「近世規矩術」で造られています。

 

明治維新期の廃仏毀釈により、古代に造られた寺院建築は顧みられなく破損がひどくなり、明治政府は古社寺保存法を立案し、奈良周辺にある古代寺院の修理工事を明治30年頃に始めました。

 

修理技術者が修理前の調査を進めると、柱が傾いている、柱の長さが違う事を、経年劣化破損に伴う現象であると判断された状態で修理工事が進められました。

 

上記の判断に異論もあったようですが、昭和10年前後に法隆寺を修理するための調査を、大工の西岡常一氏と修理技術者が詳細に調査した結果、古代の寺院建築は近世とは違った工法で造られているのが判明し、その違いを調査報告書等で発表した現実があります。

 

明治22年帝国大学に日本建築の講座が開かれてから、昭和10年までの30年間余り、「古代規矩術」という寺院建築の構法を木工技術界隈・教育界・情報メディアを含めて誰も知らなかったという驚きがありますが、同じような事が「住まい」についても言える現実があるのではないでしょうか。