無以貴の旧聞

過去を知り、現在を思う事が出来れば良いな!

規矩準縄 (2)

 

 

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  自然からの恵み(狩猟採集)を得て生活していた人たちが、自然を抽象する技術「規矩準縄」により(灌漑・栽培)から、多くの食料を自然界から獲得・備蓄することにより、人間は社会(共同体)を形成し、自然を抽象する技術の蓄積が高度な文明社会となる。

 飛鳥時代には、中国文明が仏教と共に日本に移入され、今まで見た事もない大きな寺院が渡来工匠の技術で建築され、飛鳥時代の人々は中国文明の偉大さを目にして驚嘆したと思われます。

 人々は自然を抽象的に捉える規矩準縄の技術を渡来工匠から学び、日本人自身の手で寺院を建てることが出来るようになった。

 中国から移入された完璧な技術により日本に建てられた思われた寺院であったが、歳月の経過により、傷み・破損が見られるようになる状況から、渡来工匠から学んだ寺院建築に関わった日本の人たちは思った。  

 自然を抽象して捉えた技術は、大陸気候帯の自然であり、モンスーン気候帯の自然から見ると、それは自然界のごく一部であり、移入された文明技術は日本の自然気候風土に合わせる事が必要ではないかと思うようになった。

  1. 屋根の雨漏り対策には、緩い勾配屋根を急勾配屋根にして、雨の多い地域に合うように付け足し改造する。
  2. 屋根勾配を急にすると、下から見上げた軒が、お椀のように覆い被さるので、化粧軒勾配を緩くして、内部に化粧天井を、付け足す。
  3. 雨も雪も多くて、軒先が垂れ下がる対策に、化粧軒との野屋根の間に、梃子の原理を応用した、桔木を入れ、付け足す。
  4. 寺院の土間床は湿気が多く不快なので、床を上げて床下が風を通るように、寺院を板敷床に、付け足す。
  5. ・・・・・・・・と、付け足しが、続いて行く。

 日本の建築の歴史を見ていくと、飛鳥・奈良時代の唐様、鎌倉時代の大仏様・禅宗様、安土桃山時代の南蛮様と、

大陸で形成された外来文明建築様式が移入されるが、日本の気候風土が持っている多様な表情を持っている自然に対応するように、種々の付け足しの歴史の積み重ねではなかろうか。

 室礼文化は季節に応じた室内意匠でもあるが、建築の歴史から室礼を見ると、限定された気候風土(大陸気候帯)で養われた文明が、島国のモンスーン気候帯という変化が大きく多彩な自然条件に対応していく様態が、室礼(舗設)ではないか。

 大陸思考の建物観は、自然操作する事から得られた果実を建物に表現する事「威厳・威圧・圧巻」から、日本建築は建物が自然に寄り添うように、種々の事柄を付け足したことではないか。

 建物はこうあらなければという造る論理から、その地域・その時に応じ合わせて、    造ればよいのではが、建築史から見た、日本建築の特質を示している。


       規矩術から学んだ現在の建築観です。

眉に唾を付ける

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 長年、住宅業界で飯を食っていた人間にとっては、民家再生とか町並み保存という言葉に何かしら、くすぐられる感じがしないでもない。

民家再生・街並み保存に対しては、悪い事でもないように思うし反対でもないが、  そうかといって積極的に賛成する気持ちにもならない。

何となくやましい感じが何処から漂って来る気がするのはどうしてだろうという気持ちを整理してみたい。

 

 昭和25年出版された「日本住宅の封建制」という本を少し読んでみると、田舎の住宅は封建的で遅れているから新時代に対応した住宅に改善しなければならない。    と書いてある気がしたが、この本を読んだ、当時の若い住宅関係者は、       敗戦後の新潮流でもあり、そうだそうだと納得し、世の中もそのようにはやしたてたであろうと思います。

 

 その結果どうなったかというと、田舎の古い因習に満ちた遅れた生活から脱却するためには、都会に出て新しい息ぶきを身に付けた新生活を送らなければとの思いで、  多くの若者は知識を求め、職を求めて、都会に移っていったことと思います。

 

 明治維新と共に起きた廃仏毀釈の行き過ぎた風潮により、明治30年に古社寺保存法ができ、それの延長が現在の文化財行政であるように。

 

 昭和50年に、古い街並みを守り保存の名目で伝建制度が、昭和52年に日本民家再生リサイクル協会が、平成13年に兵庫ヘリテージが、・・・・               誕生というか社会運動として現在に至り、それが今日叫ばれている民家再生とか町並み保存という言葉が社会に流通しています。

 

 敗戦後に生じた、田舎の古い因習に満ちた遅れた住まいの生活環境を改善しなければという社会的風潮が進められた結果的が、                    田舎の古い因習に満ちた遅れた生活環境には、それなりの理由を付けた価値があり、 住まい・街並みを、保存・修復・再生しなければという風潮に至っていることに対して釈然としない気持ちにつながっている。

 

 70才過ぎまで生きていて、世の中の動きというか流れを見ていて思う事は、   色々な意見・情報に対して、「眉に唾を付けて」見ていかなければという感じです。

「眉に唾を」=顔・頭・脳みそ・五感で見て感じて、生きていてはいけないよという事ではないかと思います。

 

 ではどうやって生きていけば良いかというと、伝えられるものではなくて、    それを求めた人にしか答えが得られる生き方ではないでしょうか。

 

規 矩 準 縄

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  後漢時代の画像石に画かれた、古代中国神話の伝説上の皇帝伏羲(ふつき)が

 矩(まがりかね)を持ち、妻女が規(コンパス)を持つことにより、魑魅魍魎な自然 

 を、直線とか円にとらえて(技により自然を抽象化)自然を掌握し、地域の自然を生

 かした、様々な文化を造ったと言われています。

 

 飛鳥時代に隋・唐から百済を経由して日本に伝えられた、

規矩術(曲尺・コンパス・墨糸・水糸)により仏教寺院伽藍が造られ、

古代・中世・近世・近代・現代と規矩術が伴う木工技術の変遷が寺院伽藍造りの変遷で

もありました。

 

 現在でも、日本では木造による住まい作りが広く行われていますが、

木工技術の体現者である大工さんの出番が、以前より少なくなっており、

どうしてそうなったのか、私なりに考えました。

 

 自然状況を、直線とか円という、自然界には見られない事象を頭の中で描く、

自然の抽象化(論理・科学技術)は、時間経過と共に、常に新たな抽象により、

自然を論理的・科学技術的に捉える事を宿命として持っています。

 

 自然を抽象化して捉えることによって、自然から得られる恵みを、

大きく手に入れる事が出来る人が、すなわち人々は支配することでもあり、

祭事を司ることになりますが、新たな抽象化(新たな科学技術の進展)の出現により、

新たな司祭者が誕生することになり、歴史は常に、

新たな抽象化による新たな司祭者誕生の物語でもありました。

 

 そこで社会から忘れされようとしている大工さんはどうすれば良いのか!

 技(抽象)により社会が形成され、技(抽象)は社会が求めての技(抽象)であり、

伝統技法の技(抽象)の復権と言って、時代遅れの技(抽象)自慢をしていては

現実社会に受け入れられないのは当然のことであります。

 

 抽象化(論理・科学技術)で捉える社会思考法は、大陸で生まれた思考法で、

日本は四方を海に囲まれたモンスーン気候地帯であり、

大陸地域との生活形態とは大きく違っていることを知らなければなりません。

 

 大陸文化が移入されて300年ほど経過すると、

日本風とかの和風文化が形成されていることは歴史的事実であります。

 

 室礼・舗設(見世)という、抽象物をストレートに表現する大陸的思考法でなく、

季節に合わせた表現とか、一回性の表現(遷宮)、

仮に少しだけ回りくどい表現するとかによる、文化が伝統としてあります。

 技(抽象)は技(抽象)に溺れるのでなく、大工職人は技(抽象化)をもつ

抽象化された人間を見せるのでなく、技(抽象)以前の人間の具体性を社会に

見世ることが大切です。

 

 会社組織にいる抽象化100%の人よりは、過去の技を持って生きている大工職人は、

抽象化人間の度合いが少なく、人間としての具体性を多く、

保っているのが強みではなかろうか。

 

 抽象化が進行している社会では、抽象化の度合いが少ない

具体的体内を持って生活している人間が、身近にいることに対して、

人は具体的体内を持っている人と共感を得たいと感じて、
生きているのではないでしょうか。

雄山(すいざん)

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図1:寄棟屋根よりも、

図2:屋根の棟を長く見せる方が建物に重厚感があるので、棟を長く(雄山)すると、

  軒側屋根より妻側屋根の勾配が急に見え不自然になるので、

図3:軒先屋根は同じ勾配にして軒内の妻側屋根勾配を急にする造りにしました。

  その為には隅木を途中で曲げて加工することになる。このような屋根の造りを

  「雄山」と言い、中国紫禁城の太和殿(だいわでん)がそのようになっており、

  日本では西本願寺旧佛飯所・清水寺本堂(京都)があります。

  屋根棟を長く見せる技法の行き着くところが、入母屋造屋根になりました。

図4:入母屋造屋根はダサイ・古臭い・時代遅れのイメージを持つ人たちもいたと思い 
  ますが、それなりの歴史的経緯を正当に得ていることになります。

民家の語る声を聞く

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民家を楽しむ時、身の回りにある民家を見れば、素直に見えてくる。

図1:昭和10年に建てられた北陸の農家住宅(建て替え前は藁屋根の家)

図2:昭和32年に建てられた東京の都市住宅(建て替え前は藁屋根の家)

 

昭和20年敗戦に伴い米国の占領政策は、日本は封建的因習が強い社会構造があり、それらを覆す必要がある前提で、衣食住を代表としての生活習慣を欧米近代化するための施策が計られた結果、都会では欧米化された生活習慣の成果が徐々に見られました。

 

私の生まれ育った片田舎では、戦中・戦後共に戦争の影は,都会程大きく及んでいなかったと思いますが、

記憶をたどってみると、ナトコ映画が村のお宮さんの境内とか小学校の講堂で無料映画上映会が開催され、娯楽の少ない田舎人は映画の余韻・興奮を感じながら真っ暗な田舎道を歩いて家にたどり着いた記憶があります。

 

映画内容は封建的時代劇が多くて、悪代官が農民町人をいじめる政策により無名の民は、へとへとな生活状態になった時点で、どこからともなく正義の味方が現れ悪代官を懲らしめる筋書が多かったように思われます。

 

占領軍の占領政策を時代劇映像に簡単明快に変換して、判りやすくしている映画ではなかったかと思います。

昭和30年頃にナトコ映画を何回か見て、勧善懲悪物語に心を一時動かされましたが、ナトコ映画は一時の流行であり、後の世代の人達には伝えられなくて、忘れ去られていったことも事実です。

 

日本の敗戦は、非近代的社会運営にあり、これからの社会は西欧近代的社会にしていかなければならないという都会を中心とした世論の盛り上がりもあり、

時の情報に敏感なる都会住民は、それまでの生活習慣は封建的であるから、改めるべきとの前提で、戦災で衣食住の生活装置を失った都市住民は、住まい分野においても、古くて過去のスタイルを排除して、ハイカラな洋風スタイルの住まいを好んで取り入れたのではないでしょうか。

 

日本を代表する民家研究者であるO氏の住宅(昭和32年築、図2)の間取を見ると、機能的な動線の元に配置された各部屋の通風採光が考慮された、近代的合理主義の思考を先取り反映した都市勤労生活者の住まいになっています。

 

北陸の農家住宅(昭和10年築、図1)の間取は、庄川扇状地の気候風土に制約された田園地帯に多く見られる類型化された間取で、ケ(日常)の範囲よりハレ(冠婚葬祭)の場の範囲が大きく、ハレの場で営まれる事は、米作を中心とした農業地帯での昔から伝承されている生産消費に伴う伝統行事・伝統文化を支え伝える役割を繰り返す事が住まいには求められていたことになります。

 

 家の間取を見ていただければわかるように、

都会での日常生活は日々変化する情報に敏感に反映され、衣食住を含めて多くの生活装置が、機能的・合理的・近代的という短い情報サイクルで消費(増改築の頻度)されています。

稲作農業地帯である雪国での生活基盤は、西欧的近代的合理性という新たな情報より、過ぎ去った季節の出来事を思い浮かべながら、日夜いかに稲作の収量増大に励むかが大切であり、それを補完するのが年中行事であり、年中行事を運営する住まいが間取に反映されたのがハレの場ではなかったかと思われます。

 

昨今の田舎も自家用車の普及ともに専業農家よりも勤労生活者の比重が増大していますが、生活環境の変化よりも住まいの耐用年限が長くて、

昔からある住まいを、古くて暗くて今風の生活に合わないと考える人もいますが、

昨今の短サイクルな情報化社会に身をおくよりも、昔からの伝統的な住まい形態が地域と共に歩む人達の共感を得ていることも事実です。

 

各地の民家には自力宗教・他力宗教と宗教形態により間取りの違いはありますが、

瞬時に飛び交う情報を多くの基盤にした都市住民の住まいと、

どちらかと言えばハレの場がケの場より多い民家の間取が内在する生活規範を基盤にした地方田舎住民では、

住まいに対する感覚、日々の生活感覚が大きく違うのではなかったのではという思いを大切に、これからも各地に残存している地域色豊かな民家の語りを聞いていきたいと思います。

 

忘れられていた古代の規矩

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6世紀大陸より仏教が伝来し、仏様と共に、お寺を造る技術も日本に入ってきました。

古代の技術は宗教と一体でしたが、近代では技術と宗教は別世界になっています。

 

図2、紫禁城のように中国の宮殿寺院は寄棟屋根造りになり、長い軒先を反上げる技術  も日本に入ってくる。

 

図3、柱の両端は垂直に、中央部柱を内側に傾けて軒先の反りを造る。内側に傾けるので梁長さがそれぞれ違うので、各部材の納まりは現場合わせが多くなる。

傾いた柱を建てる時は庇柱を同時に建て、繋梁で組んで傾き柱の安定を確保する。(図3の右側)

軒先は大きく反り上り、韓国時代劇映画に出て来るようになるが、日本人の感覚に受け入れられないのか、残存する寺院には見られない。

 

図4、柱は両端を長くして中央部側は短くする。柱の長さに応じて軒反りが出来るが、束の長さ等の部材寸法と仕口は現場合わせが多くなる。

 

図5、丸桁の背を違えることにより軒反りを造る。

 

図6、斗栱の部材寸法を違えることにより軒反りを造る。

 

          以上は古代の寺院建築に見られる技=「古代規矩術」。

 

中世になり寺院を建てる施主の多様化により、工匠は多様な施主の要望を叶える為に、工期を短く経済的な寺院建築工法を提案する手段として、流派を名乗り流派の秘伝書を作成しました。

現場合わせ仕事を少なくするためには、建方前の下小屋での墨付け・刻み仕事の比重を多くするため考えられたのが、規矩術という「設計図+施工図」という平面世界で立体を描ける技を、中世後期に創造したのが、「近世規矩術」といわれています。

 

近世から現在までの社寺建築は「近世規矩術」で造られています。

 

明治維新期の廃仏毀釈により、古代に造られた寺院建築は顧みられなく破損がひどくなり、明治政府は古社寺保存法を立案し、奈良周辺にある古代寺院の修理工事を明治30年頃に始めました。

 

修理技術者が修理前の調査を進めると、柱が傾いている、柱の長さが違う事を、経年劣化破損に伴う現象であると判断された状態で修理工事が進められました。

 

上記の判断に異論もあったようですが、昭和10年前後に法隆寺を修理するための調査を、大工の西岡常一氏と修理技術者が詳細に調査した結果、古代の寺院建築は近世とは違った工法で造られているのが判明し、その違いを調査報告書等で発表した現実があります。

 

明治22年帝国大学に日本建築の講座が開かれてから、昭和10年までの30年間余り、「古代規矩術」という寺院建築の構法を木工技術界隈・教育界・情報メディアを含めて誰も知らなかったという驚きがありますが、同じような事が「住まい」についても言える現実があるのではないでしょうか。

塔婆に見る、モノ・ワザ・デザイン―資材・技術・設計 

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木材製材の歴史と塔婆建設から見える事、

古代:打割り製材では、大・中・小の三種類の寸法木材で塔婆を造る。

中世:縦挽き鋸製材により塔婆に合わせた部材寸法が得られる。

近世:社会が安定すると、多くの塔婆の需要予測に応じて規格部材が事前に用意されて

   くる。

 

古代の塔婆は限られた部材で組立てるので、部材を生かした塔婆が建てられる。

中世では塔婆に合わせた部材を準備し、部材を生かした技により塔婆が建てられる。

近世は既成部材の種類が豊富にあり、部材を活かすより塔婆自体を美しくするような設計により建てられる。

 

日本の三名塔と言われる五重塔は、法隆寺(古代)醍醐寺(古代)浄瑠璃寺(中世)。

近世には多くの五重塔が造られたが、部材が市場品になり、地垂木・飛燕垂木の上端反りが市場規格外となり、垂木の反りが見られない塔婆が建てられ塔婆に味わいが感じられなくなる。

 

歴史フイルターを通すと、設計を重視した近世の塔婆よりは

部材の質感とか隠れた技が内包している古代・中世の塔婆が、多くの人々の共感支持を得ているのが日本文化の特質ではなかろうか。

 

現代の住まい作りにおいても、耐震・耐火・機能性・省エネ・経済性を重視した設計が図られているが、

日本の風土に生活する住まいとは、少し違うような感じがする。

 

寒暖差が大きく四季の変化が大きい風土で生活する人々は、

ある時点ある状況でのベストな解答を最良とするよりも、

生活は流れる時間と共にあるを根底にするのが、

生きるうえで大切なのでなかとの知恵を持って生活をしてきたのではないでしょうか。